予約はこちら

お申し込みはこちら

※アフタヌーンクルーズご乗船は事前のお申し込みは不要です。
(イベント開催時を除く)

徳川日記

202004/09歴史

屋形船だけじゃない!江戸のクルージング船まとめ

徳川の船 安宅丸 東京湾クルーズにいつもご乗船いただきありがとうございます。今回の徳川日記(ブログ)は江戸の水路を行き交った船にスポットをあてます。日本は水運により発達してきた歴史があります。特に関東一円では多数の川船と海川兼用の船が運航し、賑わいをみせました。この川船から租税徴収が行われていましたがそれを担ったのが川船役所です。江戸市中および関東諸河川に就航の川船を統制し、船改めや年貢、役銀を徴収することを役目としました。この役所が管理下の船を識別するために作成したいわばマニュアル本が「舟鑑(ふなかがみ)※初版発行時期不明」です。これには行き交う多様な船の構造・特徴・寸法などが詳細にしるした絵図で構成されているのが特徴で、現代に江戸時代に行き交っていた船を知るための貴重な資料です。その中にはもちろん、現代にも受け継がれている屋形船も記されています。

目次

①屋形船

②湯船

③屋根船

④茶船

⑤猪牙船

①屋形船 

屋形船(舟鑑)

この図の屋形船はおおよそ全長15M、幅4.2Mほどとなります。この舟鑑に記載の船の中では大型に分類されます。屋形船の全盛期は1661-81頃で、以降、幕府による船の大きさの制限により、1706年には屋形船の数は100艇までに制限されています。
これらの流れもあって、納涼船としては屋根船と呼ばれる4本柱に低い屋根のある小船が主流で、屋形船は屋根のある家の形をしたものを船上に設けた、屋根船より大きいものという分類だったようです。、江戸文化・風俗研究家の田村鳶魚(えんぎょ)の『江戸の春秋』には、宝暦7年(1757)頃には屋形船は60から70艘ほど、その中で吉野丸が一番大きく、続いて兵庫丸、夷(えびす)丸、大福丸、川一丸などが大きい屋形船だったとあるようです。また、五渡亭国貞の作品「浮絵両国夜景ノ図」の図を見ると、屋形船は屋根の上に船頭が複数人、屋根船は船頭一人の姿が描かれています。その大きさから屋形船は動かすにも人数が必要であったということですね。

浮絵両国夜景ノ図-min

また、この舟鑑からは屋形船が畳敷きで、戸を挟み一の間、二の間、三の間に客間がわかれていることがわかりますが、江戸時代の屋形船を描いた作品をみるかぎりでは、各間を分けてて使用することもあれば、繋げて一つの空間として利用することもあったと想像できます。このほか、江戸時代の屋形船ではどのような料理がだされていたかというのも興味深いところです。江戸での屋形船での飲食の様子は不明ですが、元禄9年(1696)刊の井原西鶴の『万の文反古(よろずのふみほうぐ)』に川遊びでの屋形船での献立の記載があり、大坂の料理内容となりますが、「大汁(雑魚)、杉焼(鯛と青鷺)、煮さまし(筍)、和え物(さき海老・青豆)、吸物(鱸の雲わた)、引肴(小鯵の塩煮)、田楽(たいらぎ)、吸物(燕巣(えんす)ときんかん麸)、後段に白玉のひやし餅、吸物(きすの細作り)、早鮨、真桑瓜、お茶」と記載があり、これは当時としては非常に贅沢な内容であったようです。

②湯船

湯船(舟鑑)

さて、屋形船のほかにもう一つ我々になじみがある言葉がこの舟鑑にて発見しましたのでご紹介します。それが湯船です。現在はお風呂という認識ですが、江戸時代にはその呼び名の船がありました

これは江戸時代に存在した湯を張った浴槽を備えた船・移動銭湯のことを指し、現在の湯船の語源にあたるともいわれています(これ以前から湯船という言葉はあるため語源は諸説あります)。江戸時代中期頃、お湯に浸かる習慣が庶民にも広まり始めました。しかし、銭湯の数は限られていたため流行したのがこの「湯船」です。川などを使い街はずれへと出向き、人々に銭湯を提供したのです。江戸時代末期には、銭湯が増え湯船(移動銭湯)は下火となりましたが、言葉だけは残たったということになります。舟鑑では全長およそ6.6m、幅2.1mほどで川を行き交う船の中では小型に分類されています。

 

その他、いろいろある江戸のクルージング船

 

舟遊びの基本的な使われ方は納涼船です。江戸時代は数百年前まで世界的に小氷河でした。

このため夏の気温は、現代より2~3℃低かったようです。とはいえ暑いことは変わらないので日中帯の仕事は控え比較的涼しい朝と夕方に活動し、その後夕涼みすることが夏は一般的で、夕涼みの方法の一つとして川などでの船遊びがありました。船は屋根がついた、周囲を戸と障子で閉められる豪華な「屋形船」の他、それよりやや小型で簡素なつくりの「屋根船」、二挺の櫓が猪の牙のように見える「猪牙船」(ちょうきぶね)などがありました。

 

③屋根船(日除け船)
屋根船(庶民)

江戸時代、江戸市中の水上交通や船遊びに重用された簡素な板屋根つきの小船で、日除け船と呼ばれました。大型の屋形船に対して、俗に屋根船とも呼ばれました。

武士が乗船する屋根船は障子を設けたものなどもあったようですが、武士以外は障子をたてる事を禁じられていたため、一般庶民は簾(すだれ)掛けで、船頭は一人、竿ではなく櫓でこいだ船を利用していました。

現代の感覚では、船遊びは「屋形船」だった印象がありますが、大型船の建造が禁じられていたこどなどもあり、実際は屋根船の方がはるかに数が多かったようです。 18世紀後半には50~60艘、19世紀初頭には500~600艘にもなったそうです。
屋根船(武士)
※武士が乗った障子付きの屋根船

 

④茶船

茶船
川を行き交う船の乗組員や乗客を相手に飲食物を売る小船のことを言い、江戸では両国の船遊びのときなどに、遊山船の間を漕ぎまわって飲食物を売ったとされています。俗にうろうろ船とも呼ばれ、もと「売ろ舟」といったのを、うろうろとさまようのでこの名が生じたようです。屋形船や屋根舟の乗船客に「うろうろぉ~」といいながら、西瓜や瓜など飲食物を売りに回り、「江戸まへ、大かばやき、御すい物」などの行燈看板を出して、餅売、酒売、まんじゅう売、でんがく煮売、さかな売、冷水冷麦ひやし瓜、そば切り売りなどいろんな物を売っていました。大坂でも同じような船があり、「くらわんか」と言いながら同じように強引に売りつけたので「くらわんか船」と呼ばれていたようです

⑤猪牙船(ちょきぶね)

猪牙船

猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい船のことで、漁師が生魚を市場などに急送するために使われた小型快速の運搬船を小さくしたものです。定員が最大3、4名用の小さな乗り物で、細長く、船底をしぼってあるため左右に揺れやすいことから、推進力が十分に発揮されて速度が速く、狭い河川でも動きやすかったとされています。この船が、水路の発達した江戸の町で、無数の橋を歩いていくよりも早くて便利だと好まれて、人々が船を雇いあちこちに出掛けるようになりました。浅草山谷にあった吉原遊廓に通う遊客がよく使われ、このことから俗称「山谷舟(さんやぶね)」とも呼ばれたようです。客はまず柳橋(現在の東京都台東区南東部の地名。かつての花街)の船宿で船を雇い、隅田川を上り山谷掘(さんやぼり・・かつてあった東京の水路)で下船します。船宿で一服した後、徒歩または駕籠で吉原に向かうのが一般的な交通手段でした。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされていました。ちなみに船の名前の由来はその名の通り、船の先端についている「水押(みずおし)が猪の牙のように尖っているから、この名がついたとも、小回りの利くことを「チョロ」と言うのがなまって「ちょき」になったと言う説もあります。

 

いかがでしたでしょうか。江戸時代の船は、屋形船だけではなく、多様な船が今でいうところの車に近い感覚で趣味に交通手段に活用されていたということがうかがえます。舟鑑にはまだまだ江戸を行き交う色々な船が掲載されておりますので、また別の機会にご紹介したいとおもいます。


安宅丸トップページへ

時刻・料金・航路ページへ

サンセット・ナイトクルーズページへ

アフタヌーンクルーズページへ

ランチクルーズページへ

団体・貸し切りチャーターページへ

  1. 一覧に戻る

月別アーカイブ